ariyoshitatsuhiro’s blog

有吉達宏 思考

外膜 レヴィ=ストロース『野生の思考』読み途中

本を読んでいると文章を書きたくなる。

 

画家が織物の織り方を新たに発明しないのはどうしてだろう。

それはまず見たもに対して底が知れないという実感が前提としてあるからだろう。

また、実際の糸を用いて編んだ方が簡単に発見に繋がるからだろう。糸の手触りに反応し、糸同士の重なり交わりに反応したりするだろう。しかし、糸の編み方を発見しようとする目的に終始する。しかしそれは糸を編むことへの軽視に繋がらない。それは新たな織物を創作することに限らず、様々なものへ実際的にも通じていく。そして人形の服へと繋がれば、それは潜在してした抽象性も見え易くなる。

糸を編むとき、糸との対話以外の五感は殆ど遮断されているだろう。しかし糸との対話は言い換えれば世界との対話と呼べるものだ。それは画家が絵と対峙し、世界認識と通じることと同じである。内的に進み、外部へと出てしまう。

画家が織物の織り方を発明しないのは画家の興味の範疇ではないからだろう。餅は餅屋である。この点で具体物を造る彫刻家と画家との違いが現れる。彫刻家は外世界と通じ、内世界へとも通じるが、画家に外世界との接触は果たしてあるのだろうか。あるいは画家にとって外世界とは内世界とほぼ重なっていやしないだろうか。

しかし画家にとっての外世界というものも確かに存在する。それは絵の具の手触りとは別次元にある。それは視覚においても存在する。画家の目には写るものとは別に侵蝕してくるように漏れ出てくる外部の存在が映る。それは虫の体毛や光沢に魅入るときの感覚に似る。次元が変わったようにも思え、それを言い当てようとすれば「外部との接触」となる。それは絵の具の手触りにも、一周回って再認識されるのだが。

そう、画家は確かに織り方を発明しているのだ。それはトレースしているようにも見える。しかし、確かに外部と交わり、別物として存在しているのである。

その「織り方」は潜在したものかもしれない、しかし潜在したものはある日漏れ出てくる。

また、彫刻家の造る具体も、触覚、視覚、体感を通して別の次元へと連れていくものであるはずだ。

 

文章を書くことは自分にとって不毛のようだ。わかったことしか書けない。

でも書いている途中で繋がることや、外部へのきっかけ、「、」で区切ることで生まれる新たな感触など、得るものもあるなぁ。