思ったこと
妻木良三先生に前に、自分がいいと思うものをつくるのが前提にある。でも人がいいと思う気持ちも大事かも、というようなことを言っていただいた。(要約です)
妻木先生は南方熊楠の南方曼荼羅にビビッときたとどこかで書いておられましたが、たしか南方曼荼羅は全てのものが真理に繋がっているということを印した図であったと思う。妻木先生の絵は明快で澄んでいる。でも明快にわからない。
全てのものが真理に繋がる、とすれば全ての人も真理に通じていると言えないだろうか。また真理というのは既に人の内にあるものとも思えたりする。誰もが真理を内在しているが、それの顕現度は違うのだろう。見方にもよるのだろうが。
真理は人に紐づいている。もしかしたら臍の緒が切られたことにより何かを探してしまうのかもしれない。探しものが見つかるのは自分の内にそれを予感させるものがあるからだ。紐を手繰り辿ることは、誰かの足跡を辿ることであり、足跡が無くなれば余韻を辿るものであり、余韻が無くなれば歩いてきた道から考察するものであり、その先は見えない紐を辿るしかない、のかもしれない。
人の意見も大事かも、という妻木先生の言葉には、自分の答えをもっても他者との繫がりを無くすなということにも思える。答えとは仮定に過ぎないものがほとんどだと思える。僕は悟るということに対して少し嫌悪感がある。地に足がついていないような。
悟りにも階層があるだろう。悟ったと言ったら負けを認めたようにも思える。
荘子の大鵬の話では元が魚だったことに意味があるように思える。生活する雀の小事も大事に繫がっている、大鵬を笑う気持ちも一種の悟りだ。だが他者意識の無さが大事を見えなくする。自らの内の大事に気づけなくなる。魚であった頃の大鵬が何をしていたのかが大事だ。6ヶ月も飛ぶ蓄えを如何にして得たのか。雀も大鵬になり得るということが書かれている。いや雀は大魚になるのか?飛躍というのは地面を踏ん張ってから蹴らないとできない。観察、見続けるということ。
魚から大鵬になって、その後何になるのだろう。地に降りて、魚になっても元の魚ではいられない。いや元の魚に戻るのか?大鵬になった話を他の魚に伝えると、大蛙になった話を聞かせてくれるかもしれない。いやそうに違いない。
僕の制作は分岐しているが、その共通点を探すのもいいかもしれない。
共通点がないことが個性かもしれない。
でも辿ってるのは一本の糸である気がするんだよなぁ。
万物に魂が宿るかもしれないが、差異もある。
ものと動物では感じ方、見えるものが違う。
ものには心は無いかもしれないが、何か在る。
人の中の軟質のうごめきを、描こうとしてこなかった。
こわいものに惹かれる。
こわすぎるものは直視できない。
ゆっくり、ゆっくり見る。
モチーフに挑まれる。
ここに来られるか?と。
絵は画面の上に描かれるが、絵は内心を動かす。
ものを長く見るのがこわいのは、とり込まれるからだ。
でも見ようとしないのは自分に浸っているに過ぎない。
ゆっくりと。
空の青と海の青、鏡を連想する。
鳥にならなければ空は飛べない。鳥になったら蟻を見下すことしかできない。
蟻を見下さない鳥が6ヶ月飛べるのだろうか。
答えはなかなか出ない。
答えが出ても大したことじゃない。
どこまでも辿ってる。
それが大事だと思う。
それはかなり難しい。
仕事に戻ります。
読み返して、複雑にするのは見えていないからだと思った。
安易に複雑に満足せず、明快の中の不思議を見たい。