表現の自由と戦争についての僕の考えと中島智先生のコメント
自国の国民が殺害されたから攻め込むという戦争理由は、自分の家族が殺されたからそいつの家族を殺すというのと同じだと気がつき驚いた。
国と個人の違いは多分リアリティーの有る無しだろう。
国、となるとどこかで意識が分断される。
また、国家は犯罪予備群で、本能的に無法だと思った。
それは個人も同じことだろう。
ならばなぜ本能を制御する装置があるのか。
それは自らの行動を反省し善悪を判断するのも本能だからだと思った。
芸術は無法、本能的なものだ。
しかし、制作時の作家は一般的に懐かれる、本能剥き出し、犯罪者のようなイメージとは異なる。そういう心境の時も僕の場合あるが、そうでない本能も知っている。
表現に規制をかけることは、本能的なものを抑制することだ。それが戦時に起きるという繋がりは、一筋縄ではないのかもしれない。抑制の発露として殺人が起きるのかもしれない。
本能剥き出しで制作するとスカッとする。しかしどこかで虚無感もある。本能的に探しているのだろう。
表現に政治を組み込むべきと言われると、自分の大切なところが侵されるような気になる。政治的な表現は記号的にもなりやすい。表現は脱記号化を促すべきもの。答えなどそこには無い。腑に落ちる感覚はあるけれど。芸術は声にならない小さなものを拾う行為だと思える。
戦時は敵兵を殺すことが答えとして与えられる。
表現の抑制とは、本能的な思考の停止を促している。
蓋をすれば中身は腐る。
小さなものを見過ごせば、大局的には進歩を遠ざけるのだろう。
(以下、中島先生のコメント)
そうですね。
本能をキーワードにすると、いろんなものがコインの表裏にみえてきますね。
ぼくが感じた別のキーワードは、「正しさ」でしょうか。
本能に「正しさ」が付加されることで、本能をこえた運動になってしまう、という変質。
もうひとつのキーワードは「交換と贈与」でしょうか。
もらったから返す、負の交換でもおなじ。その本能があります。
でも、それは人間を均質化した交換です。じっさいは、もらったからけど返せない、ということが多い。
返せない場合、それは贈与になります。他者どうしでは、互いに資質がちがうので、返せない。ゆえに信頼なり、怨恨なりが残る。
それが多様にあるのが現実でしょう。
よく韓国人にたいして「民族差別」とか「人種差別」とか書かれてますけど、民族も人種もちがわないのが現実で、隣人差別でしかない。
でも、他者意識の表明として、そう表現しているなら、他者という問題について深めなければなりません。
すなわち、贈与関係のしくみを。
しかし、他者に「正しさ」が適応できるか、ということ、その不可能性についてまで語ってしまうと、今度は「分断を煽っている」とされてしまうでしょう。
複数の「正しさ」を、「正しさ」は覆い隠してしまうからです。
本能は、もとより正しくも間違いもありません。
そこに留まるか、複数の正しさを認識するか、どちらかだろうと思いますが、どちらにも意思が必要で、それほど人々は意思をもってはいないようです。
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僕は知識のある人間ではないけれど、表現者として、また1人の人間として、戦争の問題と無関係には生きられないので文字に起こし公開します。
外膜 レヴィ=ストロース『野生の思考』読み途中
本を読んでいると文章を書きたくなる。
画家が織物の織り方を新たに発明しないのはどうしてだろう。
それはまず見たもに対して底が知れないという実感が前提としてあるからだろう。
また、実際の糸を用いて編んだ方が簡単に発見に繋がるからだろう。糸の手触りに反応し、糸同士の重なり交わりに反応したりするだろう。しかし、糸の編み方を発見しようとする目的に終始する。しかしそれは糸を編むことへの軽視に繋がらない。それは新たな織物を創作することに限らず、様々なものへ実際的にも通じていく。そして人形の服へと繋がれば、それは潜在してした抽象性も見え易くなる。
糸を編むとき、糸との対話以外の五感は殆ど遮断されているだろう。しかし糸との対話は言い換えれば世界との対話と呼べるものだ。それは画家が絵と対峙し、世界認識と通じることと同じである。内的に進み、外部へと出てしまう。
画家が織物の織り方を発明しないのは画家の興味の範疇ではないからだろう。餅は餅屋である。この点で具体物を造る彫刻家と画家との違いが現れる。彫刻家は外世界と通じ、内世界へとも通じるが、画家に外世界との接触は果たしてあるのだろうか。あるいは画家にとって外世界とは内世界とほぼ重なっていやしないだろうか。
しかし画家にとっての外世界というものも確かに存在する。それは絵の具の手触りとは別次元にある。それは視覚においても存在する。画家の目には写るものとは別に侵蝕してくるように漏れ出てくる外部の存在が映る。それは虫の体毛や光沢に魅入るときの感覚に似る。次元が変わったようにも思え、それを言い当てようとすれば「外部との接触」となる。それは絵の具の手触りにも、一周回って再認識されるのだが。
そう、画家は確かに織り方を発明しているのだ。それはトレースしているようにも見える。しかし、確かに外部と交わり、別物として存在しているのである。
その「織り方」は潜在したものかもしれない、しかし潜在したものはある日漏れ出てくる。
また、彫刻家の造る具体も、触覚、視覚、体感を通して別の次元へと連れていくものであるはずだ。
文章を書くことは自分にとって不毛のようだ。わかったことしか書けない。
でも書いている途中で繋がることや、外部へのきっかけ、「、」で区切ることで生まれる新たな感触など、得るものもあるなぁ。
光と黒
ふとこの絵に黒を強く入れたら光感が増したことと、光の中心部にウネウネを描いたら活き活きしてきたことが気になった。
性根
作画で手を描いているので予備校時代を思い出した。
僕は予備校デザイン科で2浪してます。
絵描きになりたかったのに、その勇気無くいろいろできるデザイン科。
大抵のことはできたが、そこからデザインでは伸びなかった。
それには安全策を選んだことも関係しているのかな。
映像科に奇跡的に受かり、アニメーションを始め、作品を作り始めてやっと自分の人生を活き活きと生きているような気がした。
僕は人間界より石とか木とかに感じる、あっちの世界に興味があるようで。
勇気ある選択を、とは思うけど、逃げても結局それを恥じて自分なりに進むし、どこへ行けば正解というのもない。
大局を見ようとすれば、その人の性根がその人を段々といるべき場所へ進めるのではないでしょうか。
作品で結果として人と繋がるのは超嬉しいけど、自分が向いている場所は人間界ではない。
でもアニメやる人、アートやる人はそんな人ばっかりです。
もっとがんばらないと。
選択と言えば、アニメーションだって選択の連続で毎日即興的です。中割りだってセンスを問われます。
日々問われています。
それはGODにというより、幼少期から通した自分の存在にという気がします。
アートもアニメも楽しくてしゃーないで。
機械
もうちょっと明るく撮れると思ったが、
フィルム写真は空気を読まないようで。
でも空気感は感じる。
瑞々しい。