何か人の考えをわかると思うとき、その時点での解に安住する後ろめたさが浮かぶ。
わかったのなら、わからなくなるまでその人の思想を辿るべきではないだろうか。
現状のわかるに安住することは、下手な料理をつくって、地面に落とすようなものではないだろうか。
蟻が喜ぶのは、人との間に絶対の剥離があるからだろうか。
作品を料理に例える人がいる。
でもそのおいしさは味と認識できるものに限られない。
見るというのは見たくないものまで見えてきてしまうもの。
目に映るもの全て、その本当の姿は見たくないものなのではないだろうか。