ariyoshitatsuhiro’s blog

有吉達宏 思考

UFO、血液

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フラッシュがUFOに見える。

偶然撮れたもの。

作品のアイディアも飛来するものだが、そこに縁はあるのかもしれない。

 

コードを見ると何か感じるものがある。

僕の、もしくは誰かの血液が流れている可能性はないだろうか。

 

ものに潜在するものは身体性を帯びているのだろうか。

自分が散在している。

 

 

 

パーソナル

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故・山崎博を思い出した。

 

セルフポートレイトを見るとき、多くの場合その人の心情に身を重ねる気持ちなく、ただ写真として見ていたなと思った。

 

パーソナルなものは当人と鑑賞者には大きな隔たりもある。

 

影に魅入る。

影の世界に何かうごめいているようで。

 

父親の写真を見て描いたが、本人を前にして描いたらどうなるだろう。

それは失敗の通過を必然とすると思える。

 

世界は広い

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世界は広い、考えうること、知れることはその一部でしかない。だが作品はその範疇に無いように思える。

 

世界は広いが一人の人、動物、植物、バクテリアも世界を内部に有しているように思える。

 

芸術がアガメラレルのはそれが人の等身、あるいはそれ以上だからだと思える。

 

芸術を崇める気持ちがあるなら隣人、触れる世界を崇め注視しなくてはならない。でなければ自己満足の陶酔に浸っているだけだ。

 

個展のアニメーション、既に出してもいい状態なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただマッチョに武装する気持ちは捨てたい。

 

それには、人を信じているかが分かれ道になってくる。

 

不安の中に生きるしかないのかもしれないけれど。

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母親は描く気になれない。

なんだかイメージが甘ったるくて。

 

写真を見て伝わってくるこの想いは何だろう。

 

人物のイメージが背景に湿潤している。

それは僕のフレーミングする意識も関係しているだろうが。

 

前投稿の父親の絵を描いているとき、絵の持つ人物像と写真から伝わってくる人物感とが交錯していた。

それを腕力で合同させた感じ。交響させることもできるのかもしれない。

 

人も絵も「場」を持つと思える。

 

正方形は画角の中でイメージが回る気がする。

 

描いてるテレビアニメのカット、不安もあるけどよくなってきた。

 

仕事に戻ります。

 

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父親を描こうとした。

 

途中絵としての人物像が表れる。

 

そこから少し父親に寄せた。

 

父親の一面は想起された。

 

途中表れた像を整形する意図はないけれど、父親をないがしろにするわけにもいかず。

 

仕事に戻ります。